玄冶店は歌舞伎の舞台としても有名です。 歌舞伎で「お富さん」「切られ与三」といえば、お富と与三郎の情話を描いた世話物の名作「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」。 |
「玄冶店」の地名は、徳川家の御典医であった岡本玄冶(1587~1645年)に由来します。玄冶は3代将軍家光が痘瘡を病んだ折りに見事にこれを全快させ、一躍その名を高めたといわれています。 玄冶は幕府から拝領した土地に借家を建て、庶民に貸したことから一帯が「玄冶店」と呼ばれるようになりました。現在でも日本橋人形町の一角には玄冶店跡を示す碑が建てられ、将軍家より玄冶に下賜されたと伝えられる橘稲荷神社が残っています。 |
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「濱田家」の名は、花街として知られた芳町(現在の人形町周辺)の芸者置屋「濱田家」に始まります。 「濱田家」の芸者貞奴は、日舞に秀で、彩色兼備の誉れが高く、時の総理伊藤博文など名だたる元勲からも贔屓にされた名実ともに日本一の芸者であったといいます。のちに彼女は日本初の女優、川上貞奴として知られることになります。 |
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江戸の粋を今に残す東京の下町「日本橋人形町」は、歌舞伎や人形芝居が盛んであった江戸時代に人形遣いが多く住んでいたことが地名の由来といわれています。 |